まっすぶっちの美忘録

自分を記録する。ツイッターしてます。 https://twitter.com/yoshixj

話し下手な美容師と僕

男と二人の空間にいて思うのが、僕は何を話せばいいのかということだ。

僕は基本、異性と話す方が話し安いように感じる。

男友達など、同性と一緒にいても僕は何を話せばいいのか分からない。

話下手な美容師

僕はここ一年弱くらい、髪を切るときは同じ美容師の方に髪を切ってもらうようにしている。

この記事を書いている今も、彼に髪を切ってもらった帰りだ。

彼は、お店では、若手の方で、まだまだひよっ子という立場だと思う。

僕が彼を指名する理由は

彼の髪の切り方は僕にあっていて、なんか変だなと思ったことをオブラートに包まず、ストレートにいうところにある。

しかし、その反面結構ストレートに言ってしまったり、コミュ力がそこまで高いタイプではない。

髪を切ってもらっている時間も、どこかぎこちなく感じてしまう。

共通項が少なく、会話が弾まない感じがするのだ。

コミュ力高い、話していて楽しい人の特徴

会話を弾ませるにはどうすればいいだろうか。

最近僕が意識しているのは、話題がでた時にその話題から繋がる次なる話題を提供することだ。

例えば、今日話が続いた話題は彼が大阪旅行に行くという話題だ。

正直、僕は大阪に詳しいわけではないが、大阪といえばUSJと串カツが有名だということは知っていた。

だから、大阪という話題に対して串カツとUSJの話題を僕は彼に提供した。

そしたら彼はそこからお好み焼き屋の話題を提供してくれた。

こんな感じで、一つの話題から、枝葉を生やすように次なる話題を提供していくというのをお互いがやって初めて会話というのは成立するんだなぁと思った。

僕が異性と話していた方が話やすいと感じるのは、彼女らは一つの話題をふると、それに関する経験や出来事を話してくれる。

しかも、聞いてもいないのに、突如どうでもいいことも話してくれるので、会話がしやすいのだなぁと最近思うところである。

話さないから好き

ここまで、会話が楽しくするには的なことを話したが、しかしあえて会話が弾まないからこそ、僕は彼が好きなのではないかと考えている。

お互い話下手なことを暗黙的に分かっていて、その中での沈黙の中、彼は集中して僕の髪をきり、僕は渡された雑誌を読む。

この側から見ると大丈夫か??と思えるような、しかし二人の間では了承している、二人だけの関係性が好きなのかなと思った。

口下手、恥ずかしがり屋、引っ込み思案だからこそわかる、同じような相手の気持ち。

その、表には発信言語化されない2人しか分からない目に見えない空気に、僕はどこか魅力を感じて、来月も彼を指名する予定だ。

つまらないことをやろう

やりたいことをやるのが人生。

とかいう話があったりするが、僕は最近つまらなそうなことほどやるべきなのではないかと思い始めた。

アート好きのマダム

僕には、たまにご飯に行ったり、アートを見に展示会に行ったりする、年上のマダムがいる。

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上京した大学一年生のころから色々な場所に連れて行ってもらいありがたい限りなのだが、

いかんせん、当時はアートなどに興味が特にある訳でもなく、そこまで面白いとは思えなかった。

大学一年生のころなんて、友達と話したり、映画、漫画を見てた方が楽しかった。

そんな、いけ好かない僕に対してマダムは、アートの面白さについてこう話していた。

「アートは、その絵だけだと、ただの絵なんだけど、その時代、場所の歴史を学んでから見るととても面白いのよ」

人は歳を重ねると人生が短く感じる。

これを読んでくれている人は

ジャネーの法則

というのをご存知だろうか。

この法則は、年を取れば取るほど、時間が短く感じるという法則だ。

その理由は、年を取れば取るほど、経験することが既に経験したものが多く

子供の頃の経験すること全て新しい!という状態を脱してしまうからだ。

すでに経験したものが多いと、人は時間が短く感じてしまうらしい。

小学生の6年間は鬼長く感じたけど、中学、高校、大学と上がるに連れて、時間が短く感じるということは無いだろうか??

あるだろう??

あると言ってください。

つまり、そういうこと。

どうせなら、密度濃い時間を過ごしたい。

人というのは、生きるなら充実した、密度の濃い時間を過ごしたいものだと思う。

そもそも密度の濃い時間とはなんなのか?

人によって定義は様々であると思うが、




僕はぼんやりとすぎる時間ではなく、解像度高く鮮やかにすぎる時間なのでないかと思う。




そう考えた時、僕はジャネーの法則が役に経つのではないかと思った。

時を振り返った時に、

ぼんやりとすぎてしまう時間というのは日々のルーティンを繰り替えしている時が多い。

解像度が高い時間というのは日々が新しい経験であるときが多い。

と思ったのだ。

そこで、意識的に新しい経験を作り出すということが、重要であると僕は思った。

では、どうすれば新しい経験を作り出すことができるだろうか??

僕はその一つとして、つまらない、興味ないことをやることが良いのではないかと考え始めた。

なぜつまらないのかを考える。

え、どうせならやりたいことをやるべきなのでは??

と考える人もいるかもしれない。

もし、その人に本当にやりたいことがあるのであれば、それをやれば良いのではないかと思う。

しかし、そんな人でもつまらないの価値がわかるように僕はここに残して置こうと思う。

世の中には2種類の人間がいる。

展示会に展示されている様な物に、全く興味がない人間、興味ある人間だ。

ふと、不思議に思わないだろうか。

僕たちは勉強が嫌いであった。数学の数式なんて嫌いだ。

なのに、大学に行くと数学を一生勉強して行きます。

みたいな教授がいるのだ。

この、数学を一生勉強してしまう人、数学を一生好きじゃない人。

ある物事に興味ない人と、興味がある人の違いは何なのであろうか。

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それは、知識、経験の差であると思う。

物事に対して、つまらないと感じてしまう人は、物事に対しての知識、経験が足りないから、つまらないと感じてしまうのだと思う。

ここで、マダムの話に戻るが、僕はアートに対して興味が湧かなかったのは、アートが作られた時代の背景知識の欠如、人生経験そのものの欠如があると思う。

それに対してマダムは、アートが作られた時代、歴史の知識、社会に出て長い期間働いてきた事による人生経験。

これらがマダムがアートを面白く感じる大きな要因になるのではないかと考える。

つまらないを感じることはチャンスである

つまるところ、つまらないと感じる物事は自分の知識、経験が薄い分野のためにつまらないと感じるのである。

ということは、つまらないと感じるものは自分がまだ経験したことがない分野であり、それを学ぶことは

新たな経験となり、人生の充実に要因するのではないのかと最近の僕は思った。

つまらない興味ない分野に触れ合うことで、自分にはその分野の知識がないことが分かる。

その分野は、新しい経験に繋がることが多いので、時間が遅く、長く流れるということであると思う。

だから、もし最近ルーティンが多いなぁとか、いつの間にか。。。

とか感じることが多くなったらあえて、興味のない展示会などに行って見るのは良いのではないだろうか。




つまらなさを感じ、自分の知識の無さを自覚し、その分野の勉強に新たにチャレンジして見てはどうであろうか。




かの、金八先生、武田さんもこんなことを言っていた。

「若さとは、分からない、悩みだ」

若さを永遠に保つ秘訣は、分からないことを増やす。それについて悩む。ということなのかもしれない。

記録ある人生にしたい

僕がブログを書いているのは、自分を記録するためだ。

自分がここにいたということを記録するために僕は文章を書いている。

昔から僕は、目立ちたい訳でもなかったけど、ユニークな存在ではありたいと思った。

かっこよく言うと、知る人ぞ知る '人' 的な感じになりたいと思った。

だから、自分がいなくなった後も1人でいいから、自分のことを覚えていて欲しいって思った。

そこで、ちょっと前に、生きたい証とかってどこに残るのだろうと考えたことがある。

例えば、スティーブ・ジョブスとかってみんなの頭の中にいるし、それこそ生きた証を残していった人だと思う。

生きた証を残すには成功しなくてはいけない、結果を出さなければいけないのかって考えたこともあった。

だけど、そんな社会の評価に左右されるような部分で自分の人生を進めて行きたいとも思わなかった。

生きた証を残すには

ある日気付いたのが、僕たちはスティーブ・ジョブズには直接あったことはなかったことだ。

僕たち一般人は、メディアを通して間接的にしか知らない。

そこで、生きた証って記録があるってことだという事に気づいた。

誰かの記憶に残っているから生きた証になる、有名になるのではなく、

メディアが取り上げるから、有名になり、誰かの記憶に残り、誰かの記憶になるのだ。

だから、そのメディアとして僕はブログを書く事にした。

その一環として、twitter もやってるし、 instagram もやっている。

自分がこの2018年6月15日にここにいたってことを記録しておくことで、誰かが見つけてくれるかもしれない。

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短くなっていく時間を、目に見える形で

記録しておくことは何も、外部目的だけではない。

自分の内面的な面も目的だ。

人って意外と自分を分かっていない。

最近は、すぐ忘れると言う事に気づいた。

人間は年を重ねるごとに時間が早く感じると言う法則がある。(ジャネーの法則)

だから、これからの時間は相対的には同じ長さの時間を過ごしているのに

自分の感覚だと、あっという間にすぎていってしまうだろう。

しかも、僕はすごく忘れっぽいので、何もせず気づいた頃には、

あれ?俺はこんな長い時間何をしていたんだ。。。。

ってなりそうな気がしてならない。

そうならないために、今日は何をした的なことをちゃんと記録して、自分が過ごしてきた時間を可視化できるようにしたいと思った。

感情を残す

僕が残しておくものの大きな基準として、感情が動かされた時のことを残しておこうと思っている。

生きる意味のようなことを考えたが、一人の人間が社会にインパクトを与えるために生きるって難易度高すぎだし、客観的評価のために生きるのは嫌いだ。

結果、生きる事との意味に、客観的な意味など全くなく、自分が幸福度高い状態で最後を迎えられれば生きる意味があったって事になるのかって思った。

自分が幸福度高い状態に持っいくことが僕が生きる意味。

僕たちの幸福度は感情に支配されている。

よく言う話で、貧乏な人にも幸福な人はいるし、金持ちにも不幸な人はいる。

その幸福って感情に絶対依存するもの。だから、僕は感情を大切にしないといけないと思った。

そこで、感情を大切にするって何だろう??って考えたときに、僕はそれを記録することだと思った。

上述したように、人間は意外とすぐに忘れる。

ライブでの感動、ディズニーの楽しさ、不幸なことでの悲しさ。

人って、その場では、めっちゃ、もうこれは絶対に忘れない。

って感じるくらいに、感情が動かされるのに、

1週間、1ヶ月、1年経つとその感情はどんどん薄まってしまう。忘れているってことだ。

感情が動くって素晴らしいと思うし、プラスに動かされた時が幸福だし、マイナスでもそれが生きているって実感するときでもあると僕は思っているので、できるだけ忘れたくない。

だから、できるだけ感情が動いたときにはその情景、いまどんな思いなのかを言葉にして残しておきたいと思っている

それが、あとあと自分で振り返った、今までの人生が充実していたと言う事に気づくきっかけになるとも思っている。

将来の希望と不安と明日を迎える

まだ、胃腸炎をこじらせている。

一日、10回くらいトイレに行くので、トイレが近くにある事の有り難さが分かりました。

トイレの神様ありがとう。

余命1ヶ月の花嫁 に一人号泣していた

僕の胃腸炎生活は、

起きる、何か飲む、食べる、2時間くらい本か動画をみる、寝る

が1セットになっていて、1日これを3セットくらい繰り返す。

ただのグータラ人間に見えるが、本当に辛くて起きていられない。お腹痛すぎって感じで。

で、僕は上記の2時間で 余命1ヶ月の花嫁を初めて見たわけだが、号泣に号泣をしてしまった。

登場人物は太郎と知恵の二人。

年齢は僕と同じ20代前半、僕が過ごしているのとほとんど変わりのない日々を過ごしている2人に襲った突然の試練。


僕は、これを書いている今も、感動が再発して、涙が出てしまっている。


どこに感動しているのかと考えてみると、

やっぱりこのストーリーは僕に起こってもなんら不思議はないストーリーで、

自分を投影しやすかったからなのかもしれないと思う。


20代といえば、将来に対する希望と不安をどうにも表現できない感情で持ち、

結局、将来設計など考えられない、考えたくないから、

今を楽しく生きる!のような結論で突っ走ってくというのが普通なのかなと思うが、

このストーリーをみるとそんな将来の希望、不安なんて言ってられないな。と思えてしまった。


明日が来ることは奇跡

いつも何をしているの?

生きている

とにかく感動して涙が止まらないので、見て欲しい。

DVD

Amazon Video

人生で初めて胃腸炎になった

  • 読んでも特に得られるものはない日記です。

多分、人生で初めて胃腸炎というものになった。

これが胃腸炎かという感じ。

腸炎経過ログ

1日目

最初はとにかくお腹が痛くなって、体がだるい。

熱は少しあったかも知れないが、測っていないので分からない。

2日目

これは、やばいなというくらい体が熱くなったので病院にいった。

お腹を下すこともしばしば。

体温計がなかったので、自分で買いに行ったがもう歩くのもクソだるい。

ちなみに買った体温計はこれ。発熱してから買いに行くのでは遅い。早めに買っておくべし。

帰ってきて、おニューの体温計で体温を測ってみると

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38.8度!!!

多分、人生最高体温を記録した。

どうしたんだ俺の体は状態。

もうダルすぎて、病院にいくのも億劫になっていたが、頑張って行った。

しかし、うちから病院がまた遠い。

多分、1.5km くらいある。しかも今日は、晴天。

外は熱い、体温も熱い、しかし病気特有の寒気もありみたいな感じで

赤道に住んできる人の気持ちが少しわかった気がする。

多分、20分くらい歩いて病院について、診察を受けた。

どうやら、インフルも少なからず出ているので疑いを掛けられていたが、

腸炎という診察を受けた。

で、1日中寝ていて、今ちょっくら起きてこれを書いた次第です。

3日目 更新!

熱は下がってきて、しかしまだ体はだるいし、どこにも行きたくないなぁという状態。

お腹も常に下しているみたいな状態で、面白いが何かをお腹に入れるたびに、下から出てくる。

なるほどこれが胃腸炎か。(笑えない)

4日目 更新!

熱は下がったが、お腹は昨日とほぼ同じ状態。

いつもの風邪ほど簡単には治らない。これが胃腸炎

インターネットは偶然を増やすツールだと思う

僕たちの人生は全て偶然であると思う。

僕の場合、

偶然、地方の最寄り駅まで15kmほどある田舎で生まれた。

偶然、公立中学校に入った。

偶然、勉強とスポーツが少しできたので名ばかり進学校に入れた。

偶然、勉強をちゃんとやる友達に囲まれ、お金も少しあったらしく東京の私立の理系に進学することができた。

偶然、ITが好きだったので、プログラミングを勉強し始めた。

偶然、起業した先輩がいたので、面白そうだから参画した。<= 今ここ

価値観が違う

時々、どうなると僕の人生は幸せなのかなと思う。

東京という社会を見ると、良い学歴を持ちそれなりの企業に勤めて、それなりの給料をもらい、休日はおしゃれなお店でディナー、BBQを開催!

の様な人生がなかなか幸せなのではないかと思う。

しかし、僕の地元をみて見ると

大学に進学した人は半数もいるかわからないし、その中で東京にきた人ってなると2桁行くかなぁくらいなのではないだろうか。

そうなってくると、休日にはおしゃれなお店でディナーなどない、BBQもお友達の家がそもそも遠すぎる、電車もないし、お店もない。

僕が子供の頃を振り返って見ると、休日は家でまったり、祖母祖父の家に行く、子供が部活やると子供の部活に付き合う。

の様な感じだった。

この様な状況を見ると、

贅沢こそ至高。

という価値観をメディアによって植え付けれてきた僕たちは東京で暮らしたいと思うのかもしれない。

インターネットは人による考え方の共有を可能にした

最近、東京でのお金がかかる、背伸びをしたオシャンティーな暮らしよりも、

地方に行ってお金がかからない、のんびりとした生活を幸福と定義した人が増えていると思う。

ここで、僕が考えたいのはこの事をなし得たのは何かという事。

それはインターネットだと思う。

昔は東京の人は東京の暮らししか知らなかったし、地方の人は地方の暮らししか知らなかったのだと思う。

しかし、インターネットの普及によりそれらの暮らしが常に共有される仕組みができた。

このインターネットと言うものが成したものは本当にでかい。

ここまでは、地方と東京という2元論の話をしているが、暮らしの共有という点を捉えると

お金持ちはどの様な考え方をしているのか、サッカー選手は?、芸能人は?、サラリーマンは?、OLは?、大学生は?

といった様々なクラスタの人たちの考え方が共有される様になった。

そして、この考え方が共有され始めたというのがとても大きいと思う。

資本主義がフラットになり始めたのではないか

我々が今まで生きてきた世の中は資本主義の世の中である。

資本主義の世の中は 資本家、経営者、個人事業主、労働者(だったかな???)

の様なクラスタに分けられていた。

一概には言えないかもしれないが、この資本主義を生きる上では

資本家 > 経営者 > 個人事業主 > 労働者

の関係性を持っていて、左に行くほど贅沢で、楽な暮らしができる。

この関係性、世代が変わっても続くことが多いのが世の中の面白いところで、どいうことかというと

資本家の子供は資本家、経営者の子供は経営者、労働者の子供は労働者

の様に、関係は子孫に引き継がれる形が多く見れれている。

実際に僕の友達でも、起業しよう、しているみたいな友達は親が経営者であることが多いし、SNSなどをみていても若いうちから会社をやっているのは大体、親が経営者であることが多い。

なんで、こんなことが起こるのかというと、僕が思うに、我々人の人生は考え方が全てだからだと思う。

そして、その考え方は人生の偶然でしか生成されなく、若いうちからビジネスをやっている奴らは、その偶然があったからできているのだと思う。

そして、今までだと、僕たち労働者階級の人たちは、その偶然によって生成された資本主義の世の中で優れた考え方をもつ人たちにいい感じで、丸め込まれて働くしかなかった。

なんでそうするしかなかったかというと、この資本主義で、我々は経営者、資本家がもつ考え方を知ることができなく、そもそもそちら側に行こうとも思わなかったからだ。

しかし、時代は流れ、インターネットというものがこの世に生まれてきた。

そして、様々な考え方が共有される様になった。

そして、気づいてしまった。 資本主義というカラクリを。

そして、経営者になろうとする者が増えたり、労働者でも考え方を武器に今までの労働者という概念を壊し始める人も出てきた。

そんな今の時代は、社会が権力が弱まる経営者、権力が強まる労働者の様な構図にシフトしていき、

さらに大量生産、大量消費によって最低限の富のレベルがどんどん下がる社会も後押しし、

フラットな社会へと移り変わっているのではないだろうか。

それを、IT界隈では価値主義という名前で読んでいるっぽい。

偶然を生み出すインターネット

僕は、社会にはある程度成功の法則という物があると思っている。

しかし、それは全員が知るものではないのかなと思う。

その成功の法則を知れるのはごく一部に限られてくるからだ。

ここで、成功とは何か?幸福とは何か?

みたいな議論をするつもりはないが、僕の中での成功は死ぬときに人生に文句を言わないことである。

かく言う僕も、成功の法則を知れている人間ではないと思う。

しかし、人生を よくする という点を見ると少しずつであるが近づいているのではないかなと思う。

これを可能にしてくれたのは

偶然、人生を よくする 考え方に出会うことができたからだ。

それを偶然を与えてくれたのが、インターネット。

今のところの僕の成功の法則

今、僕がインターネットに抱いている思いをダラダラと書き連ねてしまったが、僕が思うことをまとめると

インターネットにより、上流階級も下流階級もなくなり、すべてがフラットな世の中に移り変わっているということ。

人生は よくする とい考え方があり、それに出会うのは偶然であり、その偶然を多くしたのがインターネットであるといこと。

以上である。

上記を踏まえた上で、僕の様な普通の環境で育ってきた人間の現代社会を生き抜く上で最も良いのではないかとい考え方は

生産。積み上げ。継続。

って感じである。

この考え方をくれた偶然に感謝。

インターネット好き!

21歳。のポエムでした。

怒る人にメリットなんか無いと思うのだけれども

怒る人、怒らない人は天性的に決まっているという話をした。

僕は自分のことを所謂、理性的合理的な人間の方であり、そのせいでもあってか怒った記憶が人生を通してほとんどない。

最初は、怒る他人と怒る気力がわかない自分を比較し、自分が変なのではないか。と考えたこともあった。

しかし、年齢を重ね周りが大人になる ≒ 理性的になり、怒らなくなる

に連れて、そんなに変でもないかと思うようになった。

しかし、それでも怒りっぽい人はいるらしい。

今回はそんな怒りっぽい人に向けて、###怒る について僕が考えることを書いて行こうと思った次第である。

怒るメリットなど何も無い。

まず、これを読んでいるあなたの人生を振り返って、今まで好きになった人、嫌いになった人を思い出してほしい。

よく怒る人、感情的になってしまう人はどちらに分類されるだろうか。

圧倒的に嫌いになった人に分類されるのでは無いだろうか。

人に嫌われる事にメリットはあると思うだろうか、いや、ないと思う。

我々の人生の幸福度は人間関係に決まるという事がどこかしらの論文ですでに発表されている。

当たり前だが、人間関係をよくするに当たって、他人から嫌われる事にメリットなど微塵もない。

つまり、怒る事により嫌われてしまう確率が上がるのであれば、怒るメリットなど全くないに等しいのである。

人が怒る時とは

そうは言っても、、、という声が聞こえて来そうだ。

僕の経験上、人が怒る場面には共通して存在する事象がある。

それは

他人が自分の思い通りにならない

という事だ。

人は不思議で、

自分の思い通りにならない → 怒ろう!

となるらしい。

いや、当たり前じゃん??

って思う人もいるかもしれない。

そんな人は今一度よく考えて欲しい。

最初に述べたように、人間関係をよくする事が現状をよくする事に繋がる。

しかし、怒るということは人間関係を悪くすること。つまり現状を悪くすること。

矛盾している。

つまり、怒ってしまう多くの人間は

自分の思い通りにならない → 怒ろう!

という誤ったロジックで怒ってしまうのである。

人が怒る本当の理由

人は論理的には誤った論理で怒るという感情を発してしまうことは分かった。

しかし、そもそも人はなぜ怒るのだろうか。

それは、反射で感情を発してしまうからだと僕は思う。

前提として、感情には1次感情という感情と、2次感情という2つの感情があるということを頭に入れてもらいたい。

1次感情とは、その名の通り最初に感じる感情である。

他人がしでかす物事に対して、ストレスを感じたり、イライラしたり、不満に思ったりするフェーズが1次感情である。

1次感情結果のアクションとして、怒るという感情をだす。ここれが2次感情である。

怒る人は、この1→2までが早すぎる。

ストレスを感じた瞬間怒ってしまうのだ。

つまり、怒る人が本当に怒る理由は、自分の思い通りに行かないという 

自分のストレス

が原因なんだ。

怒らないために

自分のストレスが原因なのは分かった。

では具体的にどうすれば怒らずにやり過ごせるのだろうか。

僕は2つの方法を提案しようと思う。

その1 なぜストレスを感じるのかを客観的視点から考える癖をつける

先ほど、怒る人は1次感情から2時感情までのプロセスが早いという話を述べた。

逆を返せば、そのプロセスを遅くする事ができれば、怒らないようになるはずである。

そこで、意識するべきは1次感情を抱いた瞬間である。

僕はその1次感情を把握した時、なぜイライラしているのか、なぜストレスを感じているのか。

ということを考えるようにしている。

そうすると、イライラ、ストレスを感じる原因は今ある現状ではなくて、その現状とは全く関係ない1日前、1週間前からの積み重ねである場合も意外と多い事に気づく。

プライベートがうまくいっていない、先輩から言われた事がずっと気になっていて、1週間前の失敗で後輩からどう思われたかのか。。、。。

ような感じで、今ある現状にイライラしているのではなく、その以前からの うまくいっていない というここ最近のストレスの積み重ねで怒りに到達しようとする事に気づく。

そして、今怒ろうとしていることは、本当に些細な事にすぎないという事にも気づいて怒る事を止まる事ができる。

または、今ここで怒ってもそのイライラ、ストレスが増すだけでなんの意味もない事に気づきもする。

その2 他人にも他人なりの理由がある

これは、性善説のような話にもなってしまうが、そもそも人が思い通りに動いてくれないのにも理由がある。

全ての結果には理由がある。

こういう時は、いかにその人の立場になって考える事ができるか。

その人は、もしかしたら自分が見えないところで違うことを頑張っていたのではないか。プライベートでうまく行かなかった事が重なったのではないか。

人間社会で生きている限り、我々は様々なコミュティに属し、様々な顔をもち、様々な経験をしているはずだ。

今、自分が見えているその人がその人の全てではないと、理解した上で、なぜその人が自分の思った通りにやってくれなかったのかを考えるのが良いのではないか、

怒らないことは、自分を生きるのをちょっとだけ楽にしてくれる

僕は、高校生くらいから他人に怒った事がほとんどないと思う。

これは、当時を考えると、他人の目ばかりを気にして生きてきたから。というネガティブ的な意見ではあるが、その経験が今となってはとても良い物をもたらしてくれたと思う。

他人の目を気にするということは、それ即ち、他人に感情移入するという事に等しいので、他人を考える能力がついたという事だ。

冒頭でも述べたが、我々に幸せをもたらしてくれるのは人間関係だ。

怒らないことをで人間関係を少しでもよくすることは、生きていく上で良い何かしらをもたらしてくれるに違いない。

オススメの本